防災士について

全国の郵便局長が取り組んでいる防災士の活動についてぜひご覧ください。

3・11に寄せて


2011年3月1日に起こった東日本大震災により、全特会員5名を含め郵政グループ社員等62名が犠牲者となられ、120の郵便局と39の簡易局が大きな被害を受け閉鎖された。5年が経った今も45の郵便局と14の簡易郵便局は閉鎖中となっている(2016年3月11日現在)。

3月11日には、犠牲者のご冥福を祈るため、仙台の東北郵政研修センターで慰霊式が執り行われた。

また、3・11に先立ち、3月1日東京の憲政記念館で「防災士会10万人記念大会」が開催された。

復興の一歩として、昨年2月23日に松川港郵便局(福島県相馬市)、7月14日に米崎郵便局(岩手県陸前高田市)が本設で開局し、本年3月7日に三陸(岩手県大船渡市)、荒浜(宮城県亘理町)両郵便局が本設で開局された。郵便局長たちの「大震災を風化させない」想い、防災への取組みをレポートした。

東日本大震災慰霊式

(於:東北郵政研修センター)

慰霊式に参列したのは、遺族11組25人をはじめ日本郵便の髙橋亨社長、淵江淳執行役員、本間幸仁支社長、東北6県の幹事局長、県代表の統括局長、被災地区の統括局長。その他に、犠牲になった社員が所属していた郵便局の局長、郵政グループ各社・関係団体から日本郵政の野呂弘子東北施設センター長、平井潤一郎ゆうちょ銀行・坪川泰久かんぽ生命両東北エリア本部長、奥山俊一日本郵便輸送東北支社長、星野光一JP労組東北地本委員長、東北地方郵便局長会の荒川元二専務理事、東北地方簡易郵便局連合会の安孫子修会長等、94人。全特会員の郵便局長は19名が参列した。

まず、14時46分、1分間の黙祷を捧げ、犠牲になった方々の氏名が奉読された。

次に、髙橋日本郵便株式会社社長が「大震災の尊い教訓を活かし、これまで以上にお客さまに信頼される郵便局をつくっていかなければならない」と式辞を述べた。続いて、本間支社長、2011年4月に新入社員として採用された岩沼局・引地陵郵便部主任と大代局・鈴木千絵主任が、慰霊の言葉を捧げた後、レタックスが奉読され、献花が執り行われた。

閉式後、研修センターの中庭にある「東日本大震災慰霊碑」の前に設置された献花台に参列者が花を手向けた。

参列した平塚英明・女川局長は「復興を望む傍ら、風化を一番恐れています。11日が来るたびに命を守る大切さを再認識して伝えていくことが郵便局長の役目だと思います」。守屋博行・野蒜局長は「防災士資格の取得は震災後ですが、研修を受けて、防災士の知識を地域の方々に周知できていたら、減災に繋がったのではと実感します。郵便局長として、防災士活動を浸透させていかなければならないと決意を新たにします」とご冥福を祈っていた。

防災士10万人記念大会開催

防災士10万人記念大会は、平成28年3月1日(火)、東京都千代田区の「憲政記念館」において、特定非営利活動法人日本防災士機構の主催により、約500名(うち270名が郵便局長)の参加の下、盛大に開催された。

来賓として、安倍晋三内閣総理大臣代理・世耕弘成内閣総理大臣副長官、高市早苗総務大臣代理・松下新平総務副大臣、河野太郎内閣府特命担当・防災担当大臣が参席され、祝辞を賜った。

記念大会は第一部・第二部・第三部・交流会の構成で進行し、冒頭、古川貞二郎日本防災士機構会長が挨拶を述べられた後、来賓の挨拶、功労者顕彰、中村時広愛媛県知事、河田惠昭関西大学社会安全研究センター長・教授の提言と続いた。

第二部は、片田敏孝群馬大学大学院理工学部教授・広域首都圏防災研究センター長による「災害に向き合う力“釜石に学ぶ”」と題した記念講演が行われ、第三部は、貴重な世界唯一の震災3D映像が映写された。

交流会は、鈴木正明日本防災士機構理事長の開催挨拶の後、大澤誠会長の来賓挨拶が行われ「われわれ郵便局長は、昔から地域の安全・安心を担ってきたが、今後も魂を持った地域の推進役となっていきたいと思う」と力強い言葉を述べられ、乾杯の唱和となり、賑やかな交流会となった。

最後に、浦野修日本防災士会理事長(元全特会長)から閉会の挨拶が行われ、記念大会は終了した。

大澤会長挨拶

本日は防災士十万人達成のこのような大きな会にお招きいただき、本当にありがとうございます。

私ども郵便局は、簡易局を含めて2万4000のネットワークを持っています。防災士と同じように地域のための安心・安全を昔から担ってきたわけです。もちろん今でも郵便・貯金・保険という三つの事業を全国津々浦々で展開し、地方の物産の流通、あるいは地域の方々のために、さまざまな役割を果たしてまいりました。今ですと、例えば地方のお年寄りが、都市部に出ているご子息とiPad等を使って交流ができる「みまもりサービス」を、全国で早急なスピードで始めたところです。

浦野日本防災士会理事長は防災士一番を取得されておりますが、私も防災士2300番という番号をいただいております。当初の頃から元全特会長・浦野日本防災士会理事長に続いて、郵便局長会は、積極的に防災士取得に取り組み、今1万3000人という規模で局長が資格を取得しています。実に防災士13%の割合を占めています。また、8年前、民営・分社化の流れの中、私どもの仕事が煩瑣になり、なかなか若い局長が防災士資格取得のための講義に参加できないという状況が続いておりました。

しかしながら、8年経った今、また新たな若い局長が防災士になって地域のために尽くしたいという要望が出て、全国でまた、新たな若い防災士を生み出しているところです。

郵便局は、愛と奉仕の魂を持った防災士としての誇りを持って、地域のために、安心・安全の推進役としてしっかりと歩んでいきたいと思っておりますので、防災士機構の皆さまと、手に手を取って是非ともに進みたいと思います。

先ほどの映像にもございましたが、復興の象徴である「一本松」、現在は見える場所が限られてきております。大きなベルトコンベアが山を崩して土を運んでかさ上げが進み、瓦礫も撤去されてきましたが、是非足を運んで一本松を見ていただきたい。もう一度、防災の大事さをしっかりと認識しないといけない時期に来ているのだろうと思っております。

さらに、防災士としての活動を私ども郵便局も積極的に進めてまいりますので、防災士活動が全国へ展開し、盛んになりますようにご祈念申し上げご挨拶といたします。

浦野日本防災士会理事長挨拶

本日は栄えある10万7000人達成の大会を開催いたしましたところ、10万人を代表する皆さまが、ここに一堂に会していただきました。熱い、熱い熱気を感じます。そしてまた、日々の減災・防災の取組みに対して、熱心に、真摯に、各地域社会の中で役割を果たしていただき、そして皆さんの熱い想いが行政を動かし、国を動かし、国民の多くの期待を寄せられたことは、ひとえに皆さま方一人ひとりのご努力のお陰でございます。

また思い出しますのは、アインシュタインの言葉です。東北を旅したアインシュタインが、まさに自然と人間の共生の素晴らしさに驚嘆し、日記にはっきりと書き残しています。「自然と人間の共生」これこそが、我々日本人の真なる姿なのでしょう。その素晴らしさの一方で、我々の願いだったのか、あるいは、絶え間ない時の流れの中で、どこかに張りつめた空気を抜いてしまったのか、あるいは未来へ伝えるべき伝言を忘れてしまったんだというふうに思います。

先ほどの“てんでんこ”ではありませんけれども、防災・減災のその取組みは、我々のそうした尊い経験のもとに、さらに進化をしながら今日を迎えているわけです。

天皇陛下が、被災地訪問の際に、古文書を紐解き、平安時代に起こった貞観地震に思いを馳せて、まさに東北大震災の、あの大津波と誠に類似していると仰った。もしこれが伝言としてきちんと伝わっていたら、広く記録されていたならば、おそらくその対応も大きく違っていたであろうと論じられています。

我々は、まさに中間ランナーであり、最終ランナーではありません。あくまでも次の時代へ引き継ぐために、我々の得た知識・智恵を借りながら、これからの後世の中に二度と犠牲者を出さない思いで、情熱を傾け、そして、信念を持って防災士活動に取り組んでいきたいと思います。10万人のこの達成感を更なる躍進として次の20万人、30万人を目指して、心を一つにして頑張り続けたいと思います。

まさに原点回帰、まさに我々の発祥の地、阪神・淡路大震災に思いを馳せながら、これからも減災・防災の絶え間ない歩みの中に、我々は身を置きながら、ともに共有しあい、日本の安心・安全の国づくりに邁進したいと思います。

自信と誇りを持って、皆さんのさらなる結集をお願い申し上げ、そして心一つにして取り組むことを、ともに誓い合うために、エイエイオーで20万人を目指して、締めさせていただきたいと思います。

大震災からの復興へ─防災・減災への取組みと一層の地域貢献へ

東日本大震災から5年を経て、被災地の郵便局は着実な一歩を踏み出している。本設局オープンとなり、地域との絆を深める四局長に話を伺った。

注記:「本設局」とは長期使用を前提として建設された局舎を指す(仮局舎から移転)。

2016.3.7 本設局舎オープン

岩手県・三陸郵便局 伊藤隆弘局長

3月7日、本設局がオープンしました。オープンされて感じられたこと、旧三陸局と大きく変わった点をお聞かせください。
伊藤

まず第一に、お客さまに本当に待たれていたんだな、という実感があります。

新しい三陸局は、震災後に出来た商店街の一画にあり、市役所の支所等も近くにあります。閉鎖された郵便局もあり、お客さまが不便を感じられていたようです。道路もかさ上げされましたし、防波堤も建設されるので、お客さまに安心してご利用いただけると思います。

震災後はどのような業務をこなし、活動されていたのでしょうか。
伊藤

私は震災当時、隣の吉浜郵便局に勤務していました。吉浜地区では、先人の教えで「一定の高さ以下には建物を建ててはいけない」というのがあります。郵便局も高台にありましたので、津波の直接の被害は受けませんでした。当時の三陸局長は社員とともに避難されて、ご無事でした。私は消防団の部長をしていましたため、消防団の活動に従事し、捜索・救助活動にあたっていました。

震災から5年を迎えました。三陸郵便局は100年ほどの歴史があるそうですが、これからの100年へ向けて伝えていきたいことをお聞かせください。
伊藤

地域のイベント等にはできるだけ参加することは、今までも続けてきたことですが、これからも積極的に参加していきます。

残念なことですが、震災から5年も経つと、想いが若干薄れていくことは否めません。震災の恐ろしさ、悲惨さを伝えていくことが重要です。いざという時、郵便局が助けになるという信頼を得て、できるだけ一緒に、地域とともに歩んでいきたいと思います。

マニュアルがあっても、コトが起こったら、どうしても慌ててしまいます。その際、どれだけ冷静に対応できるかを社員と常に話し合っています。

本設局
震災直後
仮設局

2016.3.7 本設局舎オープン

宮城県・荒浜郵便局 佐藤康幸局長

被災されたと伺いました。
佐藤

津波が屋上まで来て船が乗り上げ、局舎は半壊状態、局舎内は壊滅状態でした。私も含め4名社員全員が被災しました。1名局員が犠牲となったことは、深い悼みとしていつも心にあります。私は運良く数日後救助されましたが、地元の方々に言葉では尽くせないほどお世話になりました。

「生かされた」者として、これからの地域のために何ができるかを考えて、行動していかなければと思います。

3月7日、本設局がオープンしました。オープンされて感じられたこと、旧荒浜局と大きく変わった点をお聞かせください。
佐藤

震災を機に、津波に遭わなかった中心地へ移転されたお客さまも、開局のニュースを聞いて、いらしてくださいました。地域に密着し、強い絆があったからこそのうれしい出来事でした。

新局舎は、震災前と、同じ場所に建っています。ただ、震災後に移転された方も多く、震災前は、1500あった世帯が800世帯ぐらいに減っています。復興半ばで、お客さまが戻るまでには、まだまだ時間がかかるようです。

震災後はどのような業務をこなし、活動されていたのでしょうか。
佐藤

仮設局は亘理町の中心街から荒浜局の中間に建っていました。仮設局の周辺には被災された荒浜地区の方々が600世帯ほど住んでいらっしゃいました。駐車場が広かったこともあり、お客さまには便利になったと感じていただけたようです。

亘理町は、被災地の中でも比較的復興が早い地域です。仮設の一年目から早く荒浜へ戻ってきてほしいとの要望が多かったのですが、それでも5年近くの年月が過ぎてしまいました。

郵便局長として、防災士として、伝えていきたいことをお聞かせください。
佐藤

防災設備やマニュアルだけでは、補いきれない部分があります。その部分を担うのが、郵便局長なのではないでしょうか。防災士としての知識を生かせるのも郵便局長だからこそです。

すぐ側に中学校が建設中です。2年後に完成したあかつきには、体育館の2階のピロティが避難所として開放されます。つまり、荒浜郵便局もこの地にあって、もう大丈夫という判断がなされたのではないでしょうか。皆さまの心の拠り所として、一からの出直しと考え頑張っていきたいと思っています。

本設局
震災直後
仮設局

2015.7.14 本設局舎オープン

岩手県・米崎郵便局 黄川田正洋局長

昨年の7月14日、本設局がオープンされたそうですが、開局後、感じられた点などをお聞かせください。
黄川田

米崎郵便局は、復興への象徴「奇跡の一本松」のある陸前高田市にあります。報道にもあるように、特に被害の大きかった地域です。私は当時、近隣局の今泉郵便局長でしたが、仮設局から米崎局長として赴任しました。

本設された郵便局は、震災前と同じ位置に建っていますが、防災に対する意識・姿勢は大きく変わりました。震災後は「津波注意報」の時点で避難を行う指示に変更となり、実際、何度か郵便局を閉めて避難しました。絶えず災害に対する認識を改めることで、お客さまに安心・安全の備わった郵便局として、信頼いただける郵便局となっていくと思います。

震災時はどのような状況でしたか。
黄川田

私は震災時、営業のため、米崎局へ来ていたところ、地震が発生し、局内のお客さまを安全なところへ誘導しました。帰局のため、車で道路を走っていたところ最初災害無線で流れてきた警報は「三mの津波が来る」とのことでした。三mなら、防波堤で大丈夫だと思っていたのですが、三〇分後には「六m」と変更されましたので、避難場所の山側へ避難しました。津波到達まで三〇分の時間があったことが幸いしました。振り返ると、「確かな情報を、冷静に判断すること」や「危機管理」がいかに大切かを感じます。

震災直後は情報が混乱していました。まず、地域の一員として、安否確認・人探しをすることから始まったんです。私自身ですら、今泉局が流失し、数日は安否を心配されていたほどです。

復興へ向けて、郵便局長として伝えていきたいことをお聞かせください。
黄川田

私は、部外任用ということもあり、離れた視点から見て、郵便局の業務は、究極のサービス業だと思って取り組んできました。地域を盛り上げていくことはもちろんですが、震災を経験した郵便局長として、防災に対してもさまざまな提案をしていきたいと考えています。安心・安全の郵便局があって復興へと向かっていけると信じています。

最後に、局長会、会員の皆さま方に、誌面をお借りしてご支援の御礼を申し上げたいと思います。

本設局
震災直後
仮設局

2015.2.23 本設局舎オープン

福島県・松川港郵便局 荒木良司局長

松川港局は、震災から半年後の10月20日に仮設局舎が、昨年の2月23日、本設局がオープンされたそうですが、オープンして感じられたこと、旧松川港局と大きく変わった点をお聞かせください。
荒木

新しい松川港局は、もともと高台にありましたが、さらにかさ上げされ、より地域の皆さまに安心してご利用いただける局舎となったかと思います。

仮設郵便局では土曜日のATMが使用できませんでした。本設局となってからは、使用可能となり、お客さまに使い勝手がよくなったと、大変喜んでいただいています。震災後は他の金融機関が撤退したりして、郵便局の役割はますます重要性を増してきています。

震災時はどのような行動をとられたのですか。
荒木

かなり大きい揺れで、局舎内は書類も散乱していましたので、余震の続く中、局を出たり入ったりしながら、後片付けをしていました。津波警報も出ていたのですが、よく聞こえない。そのうちに停電となり、大変な災害になっているのではと判断し、金庫室に重要な書類や現金を入れて施錠し、高台に避難した直後、建物が崩れる音が聞こえ、津波が押し寄せてきて、みるみるうちに水かさが増えていきました。

震災後は、消防団の活動や、業務では、非常払いの手続き等に追われました。

担当地域600〜700世帯のうち、約半数の300世帯が津波で流されました。復興住宅は山を崩して丘の上の110戸が建設されましたが、以前の環境とはほど遠い状態です。

震災から5年を迎えました。これからの復興へ向けて伝えていきたいことをお聞かせください。
荒木

実際に災害が起こったとき、どう判断し、行動すべきか、震災の体験を反省点を含めて、これからの防災士活動に生かしていきたいと思います。

また、原発事故による除染の問題・風評被害への対策はこれからも長く続いていく課題でもあります。お客さまには漁業従事者が多かったのですが、漁協は壊滅状態、海苔の養殖業者は大打撃を受けました。

これからも地域とともに生きる郵便局長として、お客さまに寄り添うことを心がけ、復興へ進んでいきたいと思っています。

本設局
震災直後
仮設局