ZENTOKU 2025年冬号
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琉球切手は戦後の米軍統治期から1972(昭和47)年5月の日本復帰までの間に沖縄で発行された切手のことで、全部で248種が発行された。戦後の沖縄の郵政事業は琉球政府の琉球郵政庁が担っていた。当初は沖縄・宮古・八重山・奄美大島の各群島別に設けられた民政府の通信部で運営され、その後、琉球郵政庁という全琉の統一機構になった。民政府の通信部で運営された当初は切手すらなく、料金別納スタンプで間に合わせたり、残っていた日本切手に            5  んねとおぎみん各群島の通信部長が認印を押したりして代用していた。そのさなかの1948(昭和23)年7月1日、7種の琉球切手が発行された。切手の金額表示は、米軍占領下の沖縄県などで通貨として流通したB印軍票紙幣のB円を経て、米ドルへの通貨切り替えに伴い変わっていった。また、琉球切手の意匠は、ほとんどが沖縄在住の画家やデザイナーによるものだった。その意匠デザインは当時の沖縄独自の文化を反映し、金額表示のめずらしさも加わり、今も世界中の切手ファンを魅了している。今日、改めて振り返れば、戦後沖縄の時代の移り変わりを反映していたことが見て取れる。沖縄の郵便制度の礎を築いた琉球切手が発行された米国占領下に置かれる前、そもそも日本に郵便制度が敷かれた明治期において、沖縄における郵便制度の構築に尽力したのは誰か。それが「沖縄郵便の父」といわれた真まな中かた忠だな直おである。明治初期、琉球藩は廃藩置県時に薩摩藩、明治政府に抵抗し、沖縄県ではなく「藩」として残っていた。その琉球藩が中国との帰属問題で混沌としていた時期に、幾多の困難を乗り越え郵便事業の開設に取り組んだのが真中であった。真中は1838(天保9)年、武蔵国葛飾郡惣そう新しん田でん村(現埼玉県幸手市)に生まれた。1869(明治2)年頃に駅逓大し、前島密の絶大な信頼を得た。1874(明治7)年年初に、前島の命により琉球に渡り、藩王の尚し泰の協力を得て、駅逓寮直轄による琉球郵政事業を実施する。ょうたい同年4月に帰郷したが、以後、首里、那覇、今な帰仁に郵便仮役所が設置され、浦うえ添、北ちん谷、読ゆ谷山、恩おな納、名護、本もぶ部、羽はじ地、大お宜味、国くみ頭に郵便取扱所が設置された。この郵便網により、琉球においても近代郵便制度がスタートした。当時、明治政府のもと中国との帰属問題で揺れていた琉球藩に対し、前島も真中も中国に先んじて琉球に日本の郵便事業を開設する意思が強かった。琉球藩としては1609(慶長14)年に薩摩に侵略され、明治政府には琉球藩として据え置かれ、中国との貿易も明治政府に厳しく管理されていた。明治政府による郵政事業の開設には、相当の反発があったようだ。その混乱期の郵便制度の開設。それは、琉球藩を日本の一部として国内外に示す大きな役割を果たした。真中は琉球藩に郵便制度を開設して以降も活躍し、駅逓管理局長を経て1890(明治23)年、代議士に当選している。1906(明治39)年4月に70歳で他界した。きじゃたらそんたんざにが真中忠直金額表記やデザインも懐かしい琉球切手那覇中央郵便局2Fの沖縄郵政資料センターでは数々の琉球切手が展示され、沖縄の郵便史をたどることができる。「真中忠直は沖縄郵政史において、まさに先駆的存在として郵便制度を根づかせていきました」(沖縄郵政資料センター長、金城功さん)。*7 明治初期に設立された交通・通信をつかさどる官庁。「沖縄郵便の父」と称される真中忠直(1838-1906)。発行十年の記念切手(発行1958年) 切手趣味週間の「さんしん」(蛇皮線)切手(発行1965年)司*7に入り、以後、各地に郵政事業を拡琉球切手の意匠デザインのほとんどは、地元の画家やデザイナーによるものだった。郵政博物館収蔵 ★撮影場所:沖縄郵政資料センター守礼門復元の記念切手(発行1958年)皇居三の丸尚蔵館収蔵 ★沖縄の 「切手と郵便制度」COLUMN

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