ZENTOKU 2020年春号
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04国大学(現東京大学)総長の監督下に、 その二年後の 一八八八年には文部大臣の直接管轄下に置かれることになる。こうした〝官〟による統制圧力が強まることを危惧し、前島は学問の独立を主張し続けたのである。 もとより「学問の独立」は大隈の弁、建学の教旨として有名な言葉である。だが前島は、そのことに関して「学問の独立は、その国の言語文章によって教え学ぶことが欠かせず、そうでなければ独立とはいえない」といったことを述べている。まさに、学問の独立とは国家権力からの独立であるとともに、洋の東西を超えた「母国語による独立」をも示していた。いまも息づく「早稲田・建学の精神」 東京専門学校の創立・経営に関わった前島の精神を、今日、早稲田大学としてはどう捉えているのか。早稲田大学の佐藤宏之理事は次のように述べている。 「早稲田大学は、前島密翁のご尽力なくしては存在していなかったかもしれません。大隈重信が明治一四年の政変(一八八一)で下野した際に、前島翁も駅逓総官を辞し、立憲改進党結成に参画され、翌年大隈が東京専門学校を設立した際、評議員として参画され、開校式には、来賓として福澤諭吉らとともに参列されています。政府からの圧力がかかる中、二代目の校長に就任され、校長を退任されてからも今日の早稲田大学に至る基礎づくりを推進されました。また、明治三四(一九〇一)年には募金委員会の委員長を務められ、資金集めに奔走いただくとともに、大正四(一九一五)年には多額の寄付もしていただいております。校賓として、現在大学内にある寄付者銘板にも名前が記されています」早稲田大学 佐藤宏之理事「前島翁の功績は大きい」と語る佐藤宏之氏。佐藤氏は早稲田大学教育学部卒業後、同大学に職員として勤務し、社会科学総合学術院事務長、キャンパス企画部長、総務部長等を歴任。東京専門学校全景(早稲田田圃より正門・校舎を望む)。開学当時、早稲田はその名が示すとおり水田が大部分を占める農村であった。1890年頃(写真提供:早稲田大学 大学史資料センター)東京専門学校の校庭から望む図書館や校舎。早稲田の地は東京専門学校が創立されて以降、文教地区に発展していった。1897年頃 (写真提供:早稲田大学 大学史資料センター)

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