ZENTOKU 2020年春号
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(国会図書館所蔵)(写真提供:早稲田大学 大学史資料センター)03東京専門学校の創立・経営に関わる 前島にとって「学び」の重要性は、「学問の独立」をも意味していた。その前島の教育における業績に、いくつかの教育機関・施設の設立がある。なかでも東京専門学校(現早稲田大学)の設立・経営に関わった意義は大きい。 立憲改進党を結成した大おおくましげのぶ隈重信が一八八二年、東京専門学校(現早稲田大学)を創立する。学問の独立と有能な人材の育成、さらに文明の進化発展をめざして創立された私学である。その創立メンバーの一人として学校経営を支えたのが前島だった。 創立当初、東京専門学校の経営は、大隈の親友である法学者・小お野の梓あずさが担っていた。大隈を早稲田大学の建学の父とするなら小野は建学の母と呼ぶべき存在であり、経営面から大隈を支えた。 だが、小野は東京専門学校の創立の四年後、一八八六年に急逝する。代わって経営を支えたのが前島であった。前島は一八八七年に東京専門学校の二代目校長に就任し、まず大隈家からの財政の独立など山積していた経営課題の解決を進めていった。と同時に、私学の独自性を堅持することに注力した。 当時、私学には「五大法律学校」と呼ばれる教育機関があった。東京法学校(現法政大学)、明治法律学校(現明治大学)、専修学校(現専修大学)、英吉利法律学校(現中央大学)、そして東京専門学校の五校である。それら私学の雄も一八八六年に、帝語教授として。教えられることの大切さと、教えることの重要性。前島はこの両面を、身を持って実感したのである。大隈重信1882年10月、大隈重信が私財を投入し東京専門学校(現早稲田大学)を開校した際に、前島密はその評議員となった。のちに2代目の校長職に就いて大学の財政基盤を固めた。なお、開校にあたっては基金募集委員長を務めた。東京専門学校大隈重信とその妻綾子を囲む学生たち(写真中央、帽子を被った大隈の左隣が前島密)。1901年頃 (写真提供:早稲田大学 大学史資料センター)早稻田大学のガウンを着た前島密前島密大隈重信★

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