ZENTOKU 2020年春号
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HISOKAMAEJIMA没後100年特集*3*1*202原点は、自らの苦学の経験前島密の偉業を追って❹*1 文献には「桜任蔵」との記載もあるが、本編では前島密の自伝『鴻爪痕』の「桜井任蔵」を採用。*2 日本橋四日市の古書店主。文献には「達摩屋五一」との記載もあるが、本編では前島密の自伝『鴻爪痕』の「達摩屋伍助」を採用。*3 何礼之(が れいし(「のりゆき」とも))…唐通事の家に生まれ、中国語を学び家職を継ぐが、中国語を通じて英語を習得。1863年長崎奉行所の英語稽古所学頭として  多くの学生を指導。以後、開成所(東大の前身)教授、洋学校校長などを務め、日本の英語教育に多大な貢献をした。 ★ 郵政博物館所蔵 自分の学ぶ場所、学ぶべき師を求めて日本中を旅した前島密。なぜ、それほどまでして学ぶ場と機会を求めたのか。その思想の源を探るとき、前島自身が学ぶために苦労した経験に触れないわけにはいかない。 まず前島は、幼少期に母から読み書きを教わり、糸魚川藩(新潟県)の藩医である叔父・相沢文仲のもとで育ち、江戸の儒学者、安あ積さか艮ごん斎さいを師事した倉くら石いし侗どう窩か(典太)の私塾・倉石塾に一〇歳にして学び始めた。そして一二歳のとき、わずかな旅費と学費を工面してもらい、単身、江戸に向かった。江戸に着いた当初は、寄宿先の家事を手伝いながら勉学を進めざるを得なかった。 幼い頃から向学心・克己心が高かったといえば、そのとおりだ。加えて前島は江戸後期から明治期にかけて時代の変革の息吹・機運を感じとるに敏であり、その時代を生き抜くには学問が重要だと深く理解したのだろう。 やがて前島は、水戸浪士の桜さくら井い任じん蔵ぞうや商人の達だる摩ま屋や伍ご助すけらから写本の仕事を請けるようになる。当時、写本は知識を得る手段として人気が高く、苦学の士に人気があった。前島は写本の仕事で収入とともに知識を得た。特に戦術に関する工作、輸送、地理的把握、部隊間の連絡、作戦支援など、さらに西洋事情に関する知識は、のちに前島が推進する数多くの事業を考える上でも大きな助けとなったはずだ。 前島は青年期、学ぶために函館や長崎へ渡航し、教えるために鹿児島へと向かう。函館では奉行所の諸術調所の生徒として。長崎では何が礼れい之しの開いた英語塾の塾長として。さらに鹿児島の開成学校では英前島密と教育〜教育の機会平等に尽力〜 前島密は、慶応二(一八六六)年、「漢字御廃止之議」を一五代将軍の徳川慶喜に建議した。そして後年、「漢字廃止論」を唱える。そのなかで「国家の大本は国民の教育にして、その教育は士民を論ぜず国民に普あまねからしめる」「学事を簡にし、普通教育を施すは、国人の知識を開導し、精神を発達し、道理芸術百般に於ける初歩の門にして国家富強を為すの礎地」と述べている。「教育の機会が万民に平等に与えられれば、国も豊かになる」という考えは、実際の教育機関の創設にも及んだ。 今回は、教育者としての前島に着目し、創設に関わり、今もなお教育機関として存続している東京専門学校(現早稲田大学)と訓くんもういん盲院(現筑波大学附属視覚・聴覚特別支援学校)について取り上げる。苦学高田から江戸に向かった密は、医者の家などで手伝いをしながら寄宿し、勉学に励んだ。政治・兵法・西洋事情などの書物を書き写す写本の仕事も請け、収入を得るとともに多くの知識を得た。★幼くして父を亡くした密(幼名房五郎)は、母ていのもと高田(現上越市)に暮らす。ていは裁縫などの仕事により生計を立て、錦絵や往来物(江戸時代の教科書)により密を教育した。★

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