ZENTOKU 2020年冬号
3/16

前島密遺墨(観光丸)★あこがれの函館行★03軍事より商船、通商・貿易の将来性に開眼 軍艦操練所に入学を許され、機関学、操船術を学んでいたものの、江戸後期から明治初期の日本に軍艦はなく、前島は軍事力を高めるよりむしろ、商船による通商・貿易が日本の未来を開くと考えるようになっていた。その後、前島は商船業務を学べるという函館(箱館・北海道)の諸術調所(奉行所の教育機関)に赴く。一八五八年の到着までに八ヶ月を要し、商船の学事は終わっていたものの、書物で航海測量、帆船の運転術を学び、日本初の洋式帆船である箱館丸に乗り込み、日本を二回も周回した。この航海の際、前島は海産物を箱館丸に積載し、経費を捻出する提案を行い、実行された。国家事業としての海運の基盤 明治初期の頃の海運事情を振り返っておこう。 船舶の管理業務は駅逓司の所管だった。欧州からの帰国後に駅逓頭となった前島は、そのため積極的に海運政策・行政に取り組むこととなった。 そのさなかの一八七二年、日本帝国郵便蒸気船会社が東京・大阪間と箱館・石巻間の輸送を始めた。だが、外国航路はアメリカのパシフィック・メール蒸気船会社をはじめ、他国の船会社が独占している状態だった。その背景には明治政府の海運政策の管轄が混乱していたこともあった。の将来は「海が役割を持つ」と竹内から教えられる。この事は前島の胸に深く刻まれていたらしく、晩年この夜の出来事を書き残している。前島密(幕臣時代)★通商・貿易観光丸が長崎から江戸に回航。前島は、軍艦操練所の生徒として自分が初めて乗った船が観光丸であること、雪が降ったために横須賀港に停泊したこと、甲板で見た富士山や新雪の相模の山々の美しさなどの懐旧の思いを墨絵にしたためた。

元のページ  ../index.html#3

このブックを見る