ZENTOKU 2019年秋号
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前島は明治4(1871)年、駅逓頭に任命される。渋沢栄一は、前島の願いとして駅逓頭に就任したと記している。この頃を中心に大久保利通との交流を深め、前島密は明治政府の重要なポストを歴任する。★明治5(1872)年に設立された陸運元会社は、明治8(1875)年に内国通運株式会社として発足する。内国通運株式会社には郵便局経営に必要な物品等の輸送業務を委託した。内国通運株式会社は、時代とともに統合等の変遷を重ね、日本通運株式会社として現在に至っている。(上図は、両国橋にあった内国通運株式会社、下図は内国通運株式会社の賑わい)★05駅制改革に着手、全国輸送ネットワークの構築へ 前島は北越鉄道をはじめとした鉄道建設とともに、駅制(中央と地方の輸送・情報伝達のために設けられた交通・緊急通信制度)を改革している。明治三(一八七〇)年、駅逓司の駅逓権正、明治四(一八七一)年には駅逓頭に命じられた前島は、駅制の改革に着手。この頃を中心に内務卿の大久保利通との交流を持ち、駅制はどうあるべきかなどの書簡のやり取りを重ねている。 郵便の創業と駅制廃止は、日本の運送業に大きな影響を与えた。 駅制における宿駅は、政府の公的な機関であったが、前島は、この宿駅の伝馬所を民営化し、陸運会社として独立採算で業務を行うよう命じた。これにより、従来、人馬の提供を強いられていた宿駅近隣の農民は、公的役務であった助郷制から解放された。 また、駅制改革と郵便の創業は、幕府の公用便を請け負い、宿駅人馬の特権的利用を許されていた定飛脚問屋に大きな影響を与えた。これに胸を痛めた前島は、飛脚業者に陸運業への専念を提案した結果、定飛脚問屋を母体とする陸運元会社が設立され、宿駅の陸運会社を統括する役目を荷わせることとなった。 鉄道の敷設と陸運の充実。前島は従来の駅制とは異なるまったく新しい〝全国輸送ネットワーク〟を誕生させようとした。この意義に対して、前出の井上卓朗氏は、次のように語っている。「郵便は物流の一つ。郵便制度の創設と鉄道をはじめ物流網の整備・発展はそれぞれ個別にあるものではなく、すべて結びつきながら広がっていくもの。前島は駅制改革において、その扇の要の意義を確証していたのかもしれません」大久保利通 ★ こうした前島の尽力が実を結び、地元の悲願であった新潟、直江津間をつなぐことができたわけであるが、その後、明治三七年一二月新津-新発田間が再認可されたが、「同区間の免許が失効すれば既成区間の免許も失効する。全線を公売または建設実費で政府又は他の会社に売渡しても異議はない」という厳しい条件を付けられ、一部着工したが国有となって、未成のまま引継がれた。駅制の改革

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