ZENTOKU 2019年秋号
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北越鉄道は、現在の信越本線直江津〜新潟間にあたる。敷設に際し渋沢栄一が発起人代表を務めている。北越鉄道信濃川架橋工事の写真(『青淵渋沢先生七十寿祝賀会記念帖』渋沢史料館所蔵より)(国立国会図書館所蔵)04米山越と住民暴動を乗り越えて 明治二九(一八九六)年三月、前島が北越鉄道の社長に就任すると同時期に、鉄路は着工された。か細いが堅牢なレールが継がれていく。そして、翌明治三〇(一八九七)年には、春日新田駅、鉢﨑駅間の開業を皮切りに順次路線を伸ばし、ついに明治三七(一九〇四)年には新潟駅、直江津駅間の全線が開通した。 新潟、直江津間の鉄路の敷設にあたり困難を極めたのは、鉢﨑停車場(当時)と鯨波停車場(当時)間の米山山塊を貫く八つの隧道の建設であった。米山は西へうねるような尾根が日本海に没している。現在も景勝地として知られる福浦八景などの岩礁が続き、交通の難所となっている地域である。鉄路は海に迫る断崖の下の集落を隧道で縫うように建設されていった。この隧道の建設は難工事であり、落盤発生による死亡事故も発生したと伝えられている。 北越鉄道は、明治三七(一九〇四)年に新潟駅、直江津駅間が全通するまでの間、前記の落盤事故以外にも大きな試練を乗り越えている。特に、明治二九(一八九六)年八月に新潟寄りの鉄路の建設が開始されたが、始発駅は、新潟ではなく、ひとまず新潟の対岸の沼ぬったり垂を起点とすることとなった。新潟を起点とするには信濃川に架橋せねばならず、架橋せずに貨物は船で運び、人馬は万代橋を渡れば直ぐ市の中央に出られるよう、当初は沼垂駅から万代橋畔まで延伸し、駅を設けることにした。しかし、万代橋畔に駅を設けずとも大きな不便はないし、それより早く三条、長岡に延長することが必要という意見が強く、北越鉄道は、沼垂、万代橋間の鉄路の建設を見合せることにした。 これが新潟市民を著しく憤慨させた。北越鉄道の新潟出身重役も納得しなかったが、在京重役は理論一本で沼垂を起点とすることを主張したので、重役も二派に分かれるようになった。明治三〇年(一八九七)七月には、株主総会を、東京へ移した北越鉄道の本社で行ったが、警官が出動する騒ぎとなった。そこで折衷案として、馬越、沼垂間を改良し、新潟、馬越間は汽船で連絡することを提案したが、新潟派はこの案に納得しなかった。ついには、明治三〇(一八九七)年一一月一一日、一部の市民が沼垂機関庫と貨物車に爆弾を仕掛け、爆破する事件が発生した。当時の人々の鉄道への期待の大きさが推察される事件である。この後、明治三七(一九〇四)年になって、北越鉄道は、沼垂駅から鉄路を延伸して万代橋近くに新潟駅を設置している。資金難を乗り越えた説得力 直江津から新潟へ。米山の難所を越えれば、現在の風景からは、長閑な田園地帯を列車が走ることを想像してしまう。ところが、新潟平野は、信濃川、阿賀野川などの河川の堆積作用で形成された沖積平野であり、海岸線に沿って日本最大規模の砂丘が発達しており、排水条件が悪く、低湿地が広がる平野であり、鉄路の敷設工事は、容易ではなかったことが想像される。 前島は金策に奔走し、作業者や工事反対を訴える市民たちに、鉄道の必要性を説いて回ったようだ。『鴻爪痕 前島密伝』によると、年利一割という高利の社債を発行し、一四三万四〇〇〇円を募集し、さらに高利の社債を発行して切り抜けたという。前島は数百万という当時としては莫大な社債の発行名義人になった。北越鉄道渋沢栄一

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