ZENTOKU 2019年夏号
7/16

07 産業振興面では明治十年八月、大久保利通に提案した第一回内国勧業博覧会を東京・上野で開催した。日本の近代教育の基盤を構築 目を教育・文化面に転じてみよう。 前島は慶応二年十二月、十五代将軍の徳川慶喜に対して漢字御廃止之儀を建議している。前島は一貫して「ひらがな」を尊重し、言文一致を軸に国語の改良に努めた。 三十五年にわたって国語改良に努めた前島は、明治三十三年、六十六歳にして国語調査委員長に就任する。「前島翁の文章は冗長ではなく〝抑制されて簡潔〟です。現在の日本語の礎を築いたことは、実は〝前島翁最大の功績〟とする識者も多いですね」と利根川氏は語る。 一方、障害者教育に対しては、明治九年二月に視覚障害者施設である訓盲院設立に尽力し、明治十二年に「楽善会訓盲院」が完成した。 特筆すべきは、東京専門学校(現早稲田大学)の創設に参画したことである。前島は明治二十年に二代校長に就任した。墓前祭であらためて確かめる顕彰の意義 二〇一九年四月二十七日、前島密の没後一〇〇年の墓前祭が、終焉の地・横須賀(神奈川県)の浄楽寺で執り行われた。 当日は、春驟雨に見舞われたが、参列者は前島密という人物の功績を顕彰し、「前島密は、いまの時代をどう見ただろうか」と、その人物像にあらためて思いを馳せた。1835年1839年1842年1845年1847年1851年1853年1854年1855年1857年1858年1859年1860年1862年1863年1864年1865年1866年1867年1868年1869年1870年1871年1872年1874年1875年1876年1877年1878年1880年1881年1882年1887年1888年1890年1891年1893年1896年1900年1901年1902年1903年1904年1905年1906年1908年1910年1911年1915年1916年1917年1919年天保6年天保10年天保13年弘化2年弘化4年嘉永4年嘉永6年安政元年安政2年安政4年安政5年安政6年万延元年文久2年文久3年元冶元年慶応元年慶応2年慶応3年慶応4年明治元年明治2年明治3年明治4年明治5年明治7年明治8年明治9年明治10年明治11年明治13年明治14年明治15年明治20年明治21年明治23年明治24年明治26年明治29年明治33年明治34年明治35年明治36年明治37年明治38年明治39年明治41年明治43年明治44年大正4年大正5年大正6年大正8年0 4 7 10 12 16 18 19 20 22 23 24 25 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 39 40 41 42 43 45 464752535556586165666768697071737576808182841月7日 越後国頚城郡下池部村(現在の新潟県上越市下池部)で上野家の次男として生まれる。幼名は房五郎。父は上野助右衛門、母は高田藩士伊藤源之丞の妹貞てい。毋と共に上野家を出て高田に移る。母から詩歌の暗記や浮世絵、往来物で教育を受ける。毋と越後国糸魚川へ移る。糸魚川藩の藩医で叔父相沢文仲に養われ、医学を志す。毋と別れ、高田に遊学し、儒学者倉石典太(恫窩)の塾で学ぶ。オランダ医学を学ぶため江戸に出る。政治・兵法・西洋事情などの本を筆耕して生計をたてながら、新しい知識を得る。ペリー来航。接見役石見守の従者となり浦賀港に赴く。国防考察のため、全国の砲台や港湾を見てまわる旅に出る。幕臣の設楽弾正の兄岩瀬忠震に接し英語を学ぶ必要を知る。江戸の安積艮斎の塾で学ぶ。幕府の軍艦教授所教授の竹内卯吉郎に機関学を学び、見習生として観光丸に乗船する。    巻退蔵と改名し、東北沿岸の旅を経て箱館に向かう。箱館の武田斐三郎に航海術を学ぶ。箱館丸に乗り組み約7ヶ月の航海実習を行う。日本海を周海し測量を行う。箱館奉行の命により箱館丸測量役となり、約3ヶ月の航海を行った後、江戸に帰る。長崎に滞在しアメリカ人牧師ウィリアムズやフルベッキ等から英語・数学等を学ぶ。何礼之に従い江戸に出て洋行を企てるが果たさず、長崎に戻る。長崎にて苦学生のために瓜生寅と共に私塾培社を開<。鹿児島藩の招きに応じ、藩校開成所で英語を教える(薩摩藩士の待遇)。 兄又右衛門病気の知らせにより帰郷の途につくが、間に合わず江戸に帰る。幕臣前島錠次郎の養子となり、名を来輔(助)と改め牛込赤城下町に住む。「漢字御廃止之儀」を将軍慶喜に提出する。幕臣清水与一郎の娘奈可(仲子)と結婚する。 幕府開成所の翻訳方となる。開成所数学教授となる。兵庫開港に伴い兵庫奉行の手付出役として神戸で港の事務に当たる。大政奉還を知り「領地削減の儀」を将軍徳川慶喜に提出する。江戸に戻り勘定役格徒歩目付役となる。大阪まで出向き大久保利通に江戸遷都を建言する。大政奉還後駿府藩(静岡藩)留守居並役、同本役になり、間もなく同藩公用人となる。駿府藩の遠州中泉奉行となる。この頃密と改名、後に同藩開業方物産掛となる。 12月に明治政府に召され、民部省九等出仕となり、翌年1月から民部省改正掛に出仕する。日本で初めての鉄道敷設の計画書「鉄道臆測」を作成する。4月、租税権正(従七位)に。5月、駅制改革のため駅逓権正を兼任する。6月、東海道の宿駅を利用した新式郵便制度を立案する。その後、イギリスに出張し、余暇に郵便事業を学ぶ。8月15日、イギリスから帰国し、17日駅逓頭となる。度量衡改正掛長を兼務。大蔵省4等出仕となり、駅逓頭兼任となる。母貞を東京に迎えた。駅逓頭専任となったがすぐに内務大丞となり、駅逓頭兼任となる。清国上海へ出張。生命保険、養老保険について構想を持つ。内務少輔になる。楽善会に入会し、訓盲院設立に尽力する。西南戦争のため、大久保内務卿に代わって内務省の省務をみる。川路大警視に代わって警視庁重要事務監視をする。第一回内国勧業博覧会審査官長となる。地租改正局3等出仕に兼補される。元老院議官兼任となる。(毋貞没84歳)内務大輔となる。駅逓総官となる。日本海員掖済会を発足させる。勲三等旭日中綬章を受ける。駅逓総官を辞す。大隈重信らと下野し、立憲改進党結成に尽力。日本海員掖済会委員となる。東京専門学校(後の早稲田大学)の2代目校長となる。関西鉄道株式会社社長となる。逓信大臣榎本武揚に請われ、逓信次官となる。電話業務を東京-横浜間で開始。逓信次官を辞す。日本海員掖済会副会長に就任。東京馬車鉄道会社監査役となる。北越鉄道株式会社専務取締役(社長)となる。東洋汽船株式会社監査役となる。国語調査委員長となる。東京盲唖学校商議委員となる。勲功により男爵を贈られ、華族に列せられる。京釜鉄道株式会社理事となる。貴族院議員となる。帝国教育会より賞碑を贈られる。日本海員掖済会理事長となる。勲二等瑞宝章を受ける。日本海員掖済会より有功章を贈られる。日清生命保険株式会社社長となる。貴族院議員を辞し、ほとんどの職を辞して九州各地を旅行する。神奈川県西浦村(現在の横須賀市芦名)に別邸・如々山荘を設け隠遁生活に。金婚式祝宴を催す。傘寿を祝して大寿会が開かれる。逓信省内に寿像が建設され、除幕式に出席する。奈加(仲子)夫人没(享年69歳)。如々山荘にて4月27日没。西暦和歴年齢出来事前島密年表「前島密没後百年記念誌 前島密ふるさと上越との絆」(前島密翁を顕彰する会刊)及び『知られざる前島密』(小林正義 著 郵研社刊)をもとに作成。

元のページ  ../index.html#7

このブックを見る