ZENTOKU 2018年秋号
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たのかもしれません」とのこと。 「佐渡の金、生野の銀」と謳われた生野銀山は、室町年間に本格的な採掘が始まり、信長・秀吉・家康の直轄地となり、江戸時代には、石見銀山とともに徳川幕府の財政を支えてきました。 明治政府は、「お雇い外国人第1号」のフランス人技師ジャン=フランソワ・コワニエを鉱山師兼鉱学教師として雇い、帰国までの十年間に、製鉱所(精錬所)を建設。それまで人力に頼っていた掘削を、ダイナマイトを利用することにより、省力化に成功し産出量も伸びていきます。明治二十二(一八八九)年には宮内省御料となるなど、日本の近代化を支えてきました。 鉱脈が枯渇し、昭和四十八(一九七三)年に閉山となりましたが、昭和四十九(一九七四)年に「史跡 生野銀山」(管理・神子畑選鉱場全景(昭和30年代)生野銀山の入り口の門柱には、皇室財産となった歴史を示す「菊の御紋」があしらわれている。㈱シルバー生野管理部課長。中川恭一郎さん。「江戸時代、商取引や庶民の生活で主に流通していたのは「銀」でした。時代劇で小判が小道具として使われますので「金」のイメージが強いのですが、特に上方では「銀」が中心でした」生野新町郵便局長・髙品剛さん。「生野新町局から生野銀山に続く道には、銀山で栄えていた当時の街並みが残っています。日本遺産に認定されたことを受け、郵便局でも生野銀山名物・ハヤシライスのふるさと小包を開発・販売しています。全国へ生野の味をお届けします」生野新町郵便局風景印生野新町郵便局中川郵便局長・玉川 明さん。「この辺りは、風土記に記載があるような地名も残る歴史あるまちです。高齢化の進む現状の中、郵便局が地域の交流拠点であり続けるよう、地元の方の絵手紙を展示するなど楽しく、明るい郵便局を心がけています」中川郵便局中川郵便局風景印オリジナル フレーム切手 「祝 日本遺産認定1周年 播但貫く、銀の馬車道 鉱石の道」銀山社宅の食卓のご馳走メニューで、当時「赤メシ」と呼ばれていたものを再現した「生野ハヤシライス」04

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