ZENTOKU 2017年秋号
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富岡市は、富岡製糸場とともに発展してきました。現在、上信電鉄上州富岡駅から富岡製糸場に至るルートを中心に、シルクを意識したまちづくりが進行中です。富岡市役所もその一画を成し、来年完成予定の新庁舎のエントランスには、きびそ***壁紙が使用されるそうです。 富岡製糸場は、最大の輸出品であった生糸の粗製濫造問題で評判を落としていた日本産生糸を再生すべく、フランスの技術を導入して設立された官営模範工場でした。尾お高だか惇あつ忠ただが責任者となり、建築資材はそのほとんどを周辺地域で調達し、レンガは明戸村(現埼玉県深谷市)から瓦職人を呼び寄せ、良質の粘土を産する福島村(現甘楽町福島)に設置した窯で焼成しました。当時「工女になると西洋人に生き血を飲まれる」などの噂から、工女が集まらず、尾高はまず自分の娘を工女として入場させたというエピソードが残っています。 この後製糸場は、明治二十六(一八九三)年の官営工場払い下げ等、数々の変遷を経て、片倉製糸紡績株式会社に合併され、長く製糸工場として活躍しましたが、昭和六十二(一九八七)年三月操業を停止しました。操業停止後も片倉工業株式会社によってほとんどの建物はそのまま大切に保存され、平成十七(二〇〇五)年九月に建造物の一切が富岡市に寄贈されました。当時のそのままの姿を残していることが、世界遺産登録への重要なポイントとなったと言われています。東置繭所の建物。1階は事務所や作業場等に利用され、2階は乾燥させた繭を貯蔵した。建物の入り口を見上げると、明治5年に建てられたことを示すキーストーンが見える。当時は自然光で作業していたため、採光と風通しの観点から、窓が大きくとられている。**** ***蚕が最初に吐き出す糸。太くて硬く、その多くが糸くずとして処理されてきたが、近年、高い保湿力と抗酸化力が注目され、多分野に応用されている。****埼玉県深谷市生まれ。富岡製糸場の初代場長。渋沢栄一の従兄にあたる。尾高塾を開き、栄一に論語を教えた。富岡製糸場入口に建つ丸ポスト。歴史的建造物にふさわしい佇まい。明治5年に建てられた繰糸所。内部は中央に柱のない「トラス構造」という工法で建てられているため、広い空間の中に繰糸機械(昭和41年以降に設置されたもの)が延々と並ぶ。置繭所と同様の広い窓と、蒸気抜きのための越屋根が設置されている。平成26(2014)年、ユネスコ世界遺産に登録03

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