全特 2017年4月春号
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415263長崎県庁からさほど遠くない、何家の本家が所在していた樺島町周辺。何家は、代々唐通事の家系であった。市街地からはやや離れたところに、かつて何家の別荘だった“心田庵”がある。平成25年2月に長崎市の史跡に指定され、春と秋に一般公開されている。名称の由来は、「人は地位や名誉、財産などより、“心の田畑を耕すことが最も大切である”との意味がある」という。苦学生のための合宿所「培社」のあったとされる唐寺・崇福寺。創建は寛永6(1629)年。南支建築様式をそのまま輸入し、日本では他に類例がない。大雄宝殿とともに国宝に指定されている第一峰門。中国の寧波で切り組み、唐船で運んで組み立てたもの。交差点の近くに建つ、東京・長崎間郵便線路開通起点の跡(碑)。明治5(1872)年に郵便役所が置かれた。2月の春節は、ランタンフェスティバルが開催され、新地中華街を中心に盛り上がる。眼鏡橋もいつもと違う表情を見せる。対馬を前島が訪れたのは、ロシア軍艦が撤退した後であったが、その後も列強の圧力は増し、明治政府は、明治12(1879)年、芋崎にも砲台を設置した。対馬には31ヶ所も砲台跡が残っている。芋崎へと向かう山道から海を望むと、浅あそう茅湾という深く入り組んだ内にありながら、外洋の水平線まで見渡せる絶好のポイントであることがわかる。郵政博物館館長の井上卓朗さん対馬の歴史研究もする交隣舎出版企画代表の永留史彦さん 『自叙伝』には、対馬から九州に戻った記載はあるものの、その後二年間の記録がありません。ただ、文久二(一八六二)年に出雲藩、文久三年に越前藩が外国から蒸気船を購入し、前島(巻)が乗船し操船の指導にあたった記録があり、箱館で培った機関学を活かしながら、長崎でウ*2ィリアムズやフ*3ルベッキのもとで英語を学んでいたのだと推察されます。郵政博物館館長の井上卓朗さんは、「長崎に住んでいたとされる時代、巻退蔵という当時の名前でもう一度現地で調べ直すと何か出てくるのではないか」と話しています。   文久三(一八六三)年、幕府は横浜を再び鎖港しようと、欧米使節団を派遣することとなり、通訳として選ばれたのが長崎奉行所の英語稽古所学頭・何が礼れい之しでした。何が従者を探していると聞き、前島は直談判に参上。何の快諾を得たものの、江戸へ向かう船が故障し、江戸を出航する派遣船の出発に間に合わず、初めての洋行は断念せざるを得ませんでした。しかし、何は、江戸滞在の数日、また長崎何礼之との出会いと英語塾「培社」運営宣教師ウィリアムズやフルベッキのもとで英語を学ぶ321654*2 チャニング=ウィリアムズ 日米修好通商条約の発効を契機に、宣教師として来日。前島が「培社」を開設した崇福寺の境内に滞在していた。*3 グイド=フルベッキ 宣教師として長崎に上陸。生計を立てるため、英語を教えていたが、長崎英語伝習所に英語講師として招聘された。やがては明治政府に重用された。04

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