全特 2017年1月冬号
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 幸い金華山近くの寺の和尚に詩吟の才を認められ、厚情を受けて仙台に戻ることができました。友人らの提案により、村*夫子として講義をしながら、青森、大間を経由して数々の苦労の末、ようやく箱館に足を踏み入れました。江戸を出て七ヶ月が経っていました。 念願の武田に会って入塾を許された前島は、箱館丸で二回にわたって測量術を学ぶ航海に出ます。経費の捻出に頭を痛めていた武田に、前島は北海道の海産物を運び、その売上げを経費にあてることを提案。二回めの航海では奉行所側が積極的に荷を積み込み、前島はその豹変ぶりに驚き、冷ややかな目で『自叙伝』に書き残しています。 現在、箱館丸が鎮座している埠頭の近くにある函館大町局長・梶原重俊さんによると、街の中心は、便利な函館駅寄りに移ってしまいましたが、明治・大正時代の建物が多く残る局周辺は、夏の観光シーズンには、多くの観光客で賑わうそうです。 明治以降「箱館」は「函館」と表記されています。江戸時代には「箱」と「函」の両方を表記している場合がありますが、明治に入り開拓史が「函」に統一するように明治九年に通達を出しました。 函館はどうしても幕末から明治時代にスポットが当たりますが、歴史は古く、縄文時代の遺跡も数多く発掘されており、縄文文化交流センターでは北海道で最初の国宝となった「中空土偶」も見ることができます。通常の観光コースを制覇した方は、奥深い函館を味わってみるのはいかがでしょうか。箱館丸で日本を二周港町から観光都市へ、ゆるやかに変貌する函館市明治2年、箱館山から見た弁天砲台。現在は函館どつくの敷地内に跡を示す杭が残る。写真提供:函館市中央図書館函館大町局長678*村夫子=村の物知り。田舎教師。05

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