全特 2016年10月秋号
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いかに深く受け止めていたのか、後のちの前島の活躍ぶりを見れば、窺い知れようというものです。終の住処・浄楽寺 また、前島密翁は、七十五歳でほとんどの職を辞し、横須賀市の相模湾に面した西側、芦名に別邸・如々山荘を建てて隠遁生活に入ります。終焉の地を定める前に、かつて自分が訪れた地を旅していますが、当時は、別荘すらあまりなかった鄙びた土地、浄楽寺の地所を借り受け、移り住みました。 なぜ、この地を終の住処としたのか││。前島密翁を称える会の﨑庄司会長に伺うと、佐島に滞在した折に、温暖な風土が「気に入って」、頑として芦名に住むといって譲らなかったと文献には残されています。なか夫人と眠る浄楽寺の墓所からは、富士山も望むことができます。郷土史研究家の辻井善彌氏によると、墓石の形からも、富士山が見えるということが、この地を選んだ大きな理由ではないかとのこと。 美しい風景の立石・秋谷海岸や佐島マリーナを散策すれば、前島密の境地を窺い知るよすがとなるかもしれません。なか夫人に先立たれたため、前島密翁が、「墓として見られても困るし、また墓でなくても困る、一種の建碑でも困る」と越後出身の廣川氏に、注文をつけて設計を依頼した。富士山を模した墓石の上には、衣冠束帯の前島密翁像がひっそりと見守るように載っている。横須4郷土史研究家の辻井善彌氏05

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