全特 2016年7月夏号
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野家の跡地に、前島記念館が建っています。利根川文男館長によると、前島密の銅像は、第二次世界大戦時、倉庫の片隅に置かれていたため、供出を免れたとのこと。前島の人物像も伺える資料も多数展示されていますが、その人となりを示すのが、記念館の横に建つ生誕記念碑です。正面の文字は、日本資本主義の父・渋沢栄一の手によるもので、裏面の碑文の草案は、会津八一。 「日本文明の一大恩人がここで生まれた この人が維新前後の国務に功績があったほか 後世に伝えるべきものは郵便その他の逓信事業であり小包郵便、郵便為 前島密は、幕末の一八三五年、越後国頸城郡下池部村、現在の上越市で生まれました。二〇一五年に生誕一八〇周年を迎えて、改めてその業績に注目が集まっています。 前島は生涯「縁の下の力持ち」に徹し、あえて多くを語らず、記すこともなかったのですが、その成した業績記録の数々から、前島の名前が散見され、歴史的評価に新たな光が当たることは間違いありません。前島密の根幹をつくった上越の地 上越市にある生誕の地は、生家・上前島記念館館長の利根川さん替、郵便貯金の制度ができたのもみなこの人のおかげである……」 密の父は三〇〇年続く豪農の出でしたが、密(幼名:房五郎)が一歳になる前に亡くなり、高田藩士の家の出身だった母に薫陶を受けたと言われています。 七歳で糸魚川藩医の叔父の養子となったものの、十歳のとき、高田に戻り、二年の間儒学者倉石典太(侗窩・どうか)の文武済美堂(ぶんぶせいみどう)の塾で学びました。密は、生家から塾までの往復十キロの路をほぼ毎日通ったらしく、後の日本全国を踏破した健脚の基礎が築かれたのかもしれません。04

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